春立つ*[本]
- 作者: 川上弘美
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2001/10/01
- メディア: 文庫
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せつなくてかわいらしくてたまらない小説だった。
「猫屋」という飲み屋を一人でやっているおばあさん、
カナエさんが語ったごく若い頃の話。
雪の多い街に住んでいた頃、夕方にずんずん歩いていたある日
町はずれへの道は途切れることがなく、眠りに入りたくなるような
目眩におそわれたカナエさんは、丘陵をどこまでもどこまでも
滑り落ちて辿りついたのだ。男のいる所に。
どこともしれない場所で、呼ばれるままに男と連れ添いはじめた。
帰ったり、帰らなかったりする男を待って暖炉を温め、食事を作った。
帰ると男はカナエさんを抱きしめたりくるくる丸めた。
淋しいと最初に思ったのは、雪が溶けはじめるころだったか。
男が帰らなくて、淋しい。男が側にいなくて、淋しい。
(中略)
「あんたが好きみたい」カナエさんがある日ためしに言ってみると、男は、
「好きたあ、なんのことだ」と返した。
「好きっていうのは、好くことよ」
「なるほどなるほど」男は言い、カナエさんをまるめに来た。
「好きっていうのは、好かれたいことよ」まるめられながら、カナエさんは続けた。
「なるほどなるほど」男はもう一度言い、さらにカナエさんをまるめた。
これ以上ないくらいまるめられて、わからなくなった時、目眩を感じると
男はいなくなってしまった。男の声が聞こえたと思うとカナエさんは
自分の家の玄関に立っていて、雪は溶け、春の終わりが来ていた。
こうして毎年、雪が降ると男のもとへ行き、帰されることを怖れて、
好きと言葉にしないようにしていても
カナエさんの体じゅうが淋しくなった。身体のうわっつらも中身も、
ぜんぶが淋しくなった。最後まで残っていた淋しくない部分が
淋しいにくるりと裏返ったとき、
「帰ってほしいのです」と叫んだカナエさんはやはり戻される。
男の側にはいるのだが、男に触れることができないのと一緒
それはほんとにさみしいんだけどでも、好きなんだなぁ。
カナエさんは、雪の季節のその存在が。
「神様」はどのお話も不思議な生き物たちと出会って別れて
いくお話。どれもいいけど、このお話は本当にいとおしい。